―――大きな罪の前には必ず、取るに足らぬ罪があり――――――――――

                        『フェードル・アンドロマック』【ラシーヌ】



































絶対命令が、下された。




















     *     *     *     *     *















いつも通り起床し、いつも通り朝食を取って、いつも通り登校の準備をし、いつも通り―――――










とは、いかない。















「おーい良いのかぁ?起きなくて」

「あ―――――――……後一分」

「もう八時十五分だぞ?」

「ぁえ?……………あぁあああああ!!」





枕の側に置いてある携帯の画面を見てみれば、とっくにアラームが過ぎている後。



絶叫、後、ベッドからすぐ飛び出した。

あたふたと机の隣に吊り下げられている制服を引っ掴んで、ドタバタと階段を駆け下りる。

カッターシャツもスカートも何だかんだ皺くちゃになった。せっかく父さんがアイロンをかけてくれたのに申し訳ない。

起こしてくれた声の主を完全に無視してしまったが、礼を言う暇などなかったから仕方ない。

階段をドタバタとうるさく駆け下り、リビングに転がり込んだ。

目にすぐに入ってきたのは用意されていた朝食。すぐに駆け寄って無理矢理胃に突っ込んで、コーヒーを飲み干した。

その時ふと、台所に立っている母親の姿が目に入る。



「母さんッ、何で起こしてくれなかった――」

「自分のことは自分でしなさい、っていつも言ってるでしょ?」

「うっ…」

「あなたが遅刻しようが何しようが、私には一切関係ありません」



まるで私が訊いてくることが分かっているかのような、鮮やかな返答だった。

にっこり微笑まれては、もう反論の余地がない。

確かに、今まで母さんは私に対してとやかく何か言ってくることはない。

だがその代わりに、私に対して何かしてくれるということもあまりなかった。

高熱が出た時などはまた別事情だったけれど。



「頑張って走れば間に合うわよ、ガッコ。成功率は零に近いけど」

「行って来ま―――す!!」



扉を荒々しく開け放って、母さんの言葉を置き去りに私は家を飛び出した。

食べたばかりでいきなり走り出せば腹部に痛みが走る。

それを気にしている時間はないが、それでも走るという動作に影響はある。

横を通り過ぎていく車に憎しみを覚えそうだった。

























(どう考えても間に合わないだろ――――!!)



自転車で通学するほどの距離ではなかったから、徒歩で通学している。

それが今回裏目に出てしまった、自転車ならばまだ幾分か遅刻しない可能性もあったかもしれない。

チャイムが鳴るまで残り――――五分。

五分後に教室に入り自分の席に座っている、光景が浮かばない。

それを思うと余計に足が重くなった、急速に走る気が失せていく。



(……もういっか、一回くらいの遅刻。別に人生に影響あるわけじゃないし…)



そうこうする内に考えが過ぎって、……すぐに歩き出す。

確かに、遅刻して刑罰が下るかと言えばそうでもない、法律で規制されていることもない。

それに私よりも遅刻してる人なんて大勢いるわけで。

別に強迫観念に駆られる必要もないじゃないか。

誰かが死ぬわけでもない。



(あ―、何か焦って損した気分)



頬を流れる汗が憎らしい、朝っぱらからどうしてこんな運動をしなければならなかったのだろう。

そのせいでお腹が鈍かったり鋭かったりする痛みを主張している。

一瞬、腸が蠢いた。一応ちゃんと消化活動は続いている、当たり前だが。

鞄を持っていない方の手で腹部を押さえ、眉を顰めた。

どこか惨めな気分だ、たかが遅刻するかしないかで必死になった自分が馬鹿みたい。

ここまで来れば開き直りだ、ゆっくり行ってやろう。

一時間目は確か数学だったか、まぁ友達にノートを見せてもらえればどうにかなるだろう。

まだそんなにややこしい分野をしているわけでもないから、支障はきっとない。



(あ、そういえばあいつどこ行った?)



焦る必要がなくなったからだろう、不意に思い出す。

先ほど私を起こした存在について、思考が傾いた。

辺りを見回したがその姿は見当たらない。

気配も感じられなかった、ついてこなかったのだろうか。





(……何だ、今日は付いてくるつもりじゃなかったのか?)





頬を掻きつつ、どこか不安になりながら足だけ進める。















     *     *     *     *     *















―――――突然、我が家で共同生活が始まりました。















――――――待て、待て待て待て、シャレにならないはっきり言って。

どうしてだ、どこを間違った私は、いや、そもそも私が間違っていただとか正しかったとかいう問題ではない。

私に意思などなかったのだ。そう、強制。それ以外の何ものでもない。

誰が自ら出会ったばかりの、あれ違う、創った?どっちにしろ、何か変な表現だな。

まぁいい、とりあえず首を締め上げてきた奴と同じ場所で暮らさなければならないのは、なぜだ。





「万事屋に彼を置いてくれるとかじゃないんですか!?」

「そんなわけあるかよボケ、ただでさえ二人住んでて狭いんだ」

「いいじゃないですか、別に彼は屋根の上にいればいいんですから」

『……マジかよ』

「あ、雨とかの日はどうするんですか!?台風とか!!」

「びしょ濡れにでもさせとけ、吹っ飛んじまった時はほっとけ」

「えぇぇええぇえッ!?」

『おい、何でそんなに俺の扱いが雑なんだよッ!!』

「へぇ、丁重な扱いされたかったのか?」

『せめて人並みの扱いをしてくれッ!!』

「てめぇ人じゃねぇだろ」

『…………』

「ちょ、そこで諦めるのか!?もうちょっと頑張れよ!!」

『うっせぇこの野郎っ!!』

「どっちにしろ、空の家でないと駄目ですよ?念の源の傍にいないといけませんから」





といったやりとりを四人で仲良くしたのが、一週間ほど前。





気が付けば荷物も何もかも万事屋に運ばれていて、とっくに学校から退散した後だった。

あの酷も全回復していて、悲惨な傷跡など欠片もない。

しばらく状況を忘れてしまっていて混乱したが、徐々に光景が蘇って来てどうにか把握出来た。

そしてその直後に沙羅さんから要求された、余りに理不尽な事柄。










―――この酷と一緒に暮らせ――――――――――










目が点になって、すぐさま反応出来なかった。

嫌な沈黙が流れた後に、私と彼の抗議の声が同時に万事屋に盛大に響く。

無論、沙羅さんにそんな言葉は通用しない。



「まぁいいじゃねぇか、部屋に入れろとまでは言わないだけマシだと思え」

「そういう問題ですか!?」

「何だ、部屋に入れても良いのかぁ?」

「入れたくありませんよ!!」

「そこまで即決に否定するのもどうかと思いますが」

「知りません!!」

『てめぇもかよッ!!』

「あんただって私の部屋で住みたくないだろ!?」

『屋根よかマシだ!!』

「冗談じゃない、私が嫌だ!!」

『やっぱてめぇのことしか考えてねぇじゃねぇかよ!!』

「何か悪いかッ、こっちとしてはこれからの生活の一大事なんだよ!!」

『俺は生死に関わってんだ!!』

「なら命懸けで頼めよ根性無しッ!!」

『てめっ、殴ってやろうかクソッタレ!!』

「おいおい喧嘩すんなら外でやれ外で」

「誰のせいだと思ってるんですか!?」

『何偉そうに指図してんだよ!!』


何を言っても無駄なのは分かっている、それはもう嫌でも分かっている。

でもこれだけは酷すぎる、どう考えても有り得ない、絶対に回避したい。

私を襲ってきた酷と一緒に住めと言われて、拒絶しないわけがないだろう。



「大丈夫だ、こいつは一ヶ月くらい前に生まれたんだぞ?つまり、生後一ヶ月。餓鬼だと思えば良いだろ?」

「そういう問題じゃありませんよッ!!」



私の考えていることを察したのか、笑顔で沙羅さんが告げる。

だが、どう見たって彼は赤ん坊には見えない。

言葉も話せるし感情もあるし、どれだけ頑張っても何も知らない子供には見えない。

逆に同年代としか見なせない。

口調も悪い。



「それじゃぁ契約でもすりゃ良いだろ、変なことはしないって」

「へっ、変なことって―――」

「あぁ?着替えは覗かないとか風呂は覗かないとか寝てるときに襲わないとか」

「な、何言ってんですかぁ――――!?」

「何だ、それを心配してやがったんじゃねぇのかよ」

「そもそもっ、酷にそういう欲求あるんですか!?」

「まぁ男がベースなので、ある酷はあるんじゃないですか?僕にはありませんけど」

「―――――――はい?」

「大丈夫ですよ、どっちにしろ酷と人で子供は出来ませんから」

「やっぱりそういう問題じゃないんですけど――っ!!」



子供が出来るとか、いきなり言わないで欲しい。心臓に悪過ぎる。

そんな心配など欠片もしていない、どう足掻いても有り得ないことだろう。そんなこと。

私が危惧しているのは別のことだ、彼が私の家にいては身内にバレルかもしれないじゃないか。

闇影の世界に彼らを関わらせたくはない、少しでも感づかれる要素があってもらっては困る。

すぐに続けて言葉を発そうとした私だったが、その前に酷が大きく反論した。

驚いて私は少しだけ口を閉ざしてしまう。



『あのなぁ、誰が好き好んでこんな奴襲うんだよ!!』

「なに言ってやがる、てめぇが真っ先に襲ったじゃねぇか」

『あれは意味が違うッ!!』

「変わんねぇだろ大して」



その切り返しに、誰でもない私が否定した。



「大違いですよ何言ってんですか沙羅さん!!」

『だぁくそうぜぇ!!とりあえず俺はこの女の家にいるつもりはねぇぞ!?』

「………しょうがないですねぇ」



何かが、まとわりついた。

同じタイミングで、同じように私たちは体を震わせた。

腕やら足やらなんやらが撫でられて、特に項辺りがぞぞっと反応した。

ぎぎぎっ…と軋んだ音を立てながら首を回す。

星夜さんの微笑みが怖い、相変わらず。





「良いですか、貴方は空の念で出来た酷なんです、念の供給源である彼女の側にいないといけないんですよ絶対に。

 これは貴方の希望でどうにかなることでもない、嫌だと言っても無駄なんです。

 それに空、貴女も彼を受け入れたのなら家に置くくらいしてくれないと困りますよ。

 第一、また別の酷に襲われた時に彼がいてくれた方が貴女も楽のはずです。

 ただでさえまだろくに言霊扱えるわけじゃないんですから、彼に助けて貰えるならそれほど有り難いこともないでしょう?

 互いの利害を考えなさい、ただぎゃぁぎゃぁ喚いてもどうにもなりませんよ。言っておきますが。                   」





反論の、余地が。



まずい、非常にまずい、またこんな状況か。

どちらとも発言権を失った、このままでは強制的に一つ屋根の下で暮らすはめになる。

いや、屋根の上と下?

だが、確かに、星夜さんの言う通りでもある。

我慢、しなければならないのは、結局、確実。

かといってすっぱり認めるのはどこか許せない。

グッ…と押し黙ってしまった私達は、――――それでも何も口に出せなかった。



「よっし諦めたな、ならとっとと帰れ」

「まぁお互い上手くやっていってくださいよ?」



無言になってしまった私達に、残酷な宣告。

本当にこの人達は何なのだろうか。

盛大に溜息を吐きたい気分になったが、隣にいる酷に何か言われそうだから止めておく。










その帰り道、どこまでも気まずい雰囲気が私の家まで漂ったのは、言う間でもない。